明智光秀について


● 明智光秀を偲ぶ旅in亀岡
ときは今 天が下しる 五月哉

本能寺の変の直前に明智光秀が天下獲りの時が来たと詠んだ歌だ。
信長を討ったことから逆臣のイメージが強い光秀だが、
亀山城主時代は善政を施したと言われている。
そんな光秀を偲びながら、亀岡の光秀ゆかりの史跡をめぐってドライブしてみよう。

● 亀山城跡

亀山城の鯱ほこ
 JR亀岡駅の南に、光秀が築いた亀山城の跡がある。
光秀は天正6(1574)年丹波亀山城を攻略し、新たに三層の平城を築城。
同8年、亀山城主となった。光秀の亀山での統治は約6年の短い期間だったが、城郭や城下町の場所の選択や設計には、正確なものがあり、城下町の発展の基礎を築いたという。
亀山城は明治江戸時代初期にほぼ完成され、亀宝城とも称せられたが、 明治10年に解体されてしまった。
光秀の当時を偲ぶものとしては石垣の一部とお堀が残る。
現在城跡は大本教の本部となっており、お祓いを受ければ見学できる。
亀岡駅より南に5分ほど歩いた南郷公園の入り口にある
亀山城のしゃちほこのレプリカもお見逃しなく!
しゃちほこだけでもかなりの大きさで城の雄大さが想像できる。

● 明智戻り岩〜明智越えハイキングコース
 丹波から摂津の国へ向かう法貴峠に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれた巨大な岩が建っている。
これが「明智戻り岩」。
光秀は秀吉の命で中国地方に出兵にする途中、法貫峠にさしかかった。
そしてこの岩のところで、逆戻りして、老の坂を越えて、本能寺へ向かったという。
巨大な岩を見て、突如信長討ちに向かった光秀。
その胸中はいかなるものか?
戻り岩までは車がないと苦しいが、トロッコ亀岡駅から 老の坂を越えて京へ向かうコースは「明智越えハイキングコース」として整備されている。
足に自信のある方は本能寺へ向かう光秀の心中を察しながら、
明智越えに挑戦してみるのもいいかもしれない。

● 谷性寺(光秀寺)

鮮やかな桔梗の花
 湯の花温泉を越え、国道372号線を更に北西に入った山奥に、谷性寺はひっそりとただすんでいる。
ここは光秀の首塚が祀られていることから「光秀寺」とも呼ばれている。
光秀は本能寺の変からわずか11日後の6月14日に山崎の合戦で敗れ敗走中の小栗栖で農民の竹槍に刺されて最期を遂げた。
その首を配下の武将が持ち帰って、谷性寺に埋めたという。
光秀の命日には首塚の前で「光秀公忌」が行なわれる。

そしていつの頃か、この寺には人々が光秀供養のために明智家の家紋である桔梗の花を植えるようになった。
今でも夏になると、桔梗の花は咲き乱れている。
青紫色の花を見ていると、光秀の哀しい心がふっと伝わってくるような気がする・ ・ ・。

住所:亀岡市宮前町猪倉土山39

 ・明智光秀(1526-1582)
丹波亀山城主。美濃国の生れ。出自は不詳であるが、土岐氏の一族、明智光綱の子という説などがある。生年は大永六年(1526)ともいう。
諸国流浪の義昭の側近、細川藤孝(幽斎)とも親交をもった(のち娘を幽斎の長子忠興に嫁がせる)。義昭と信長を仲介し、永禄十一年(1568)、義昭を奉じた信長に従って上洛、京都奉行となって行政手腕を発揮した。
信長の重臣となり、北陸・伊勢・近江・丹波などの戦に参加して功をたて、元亀元年(1571)、近江志賀郡を与えられて坂本城主となる。
天正二年(1574)、従五位下に叙せられ、日向守に任じられる。翌年、惟任の姓を与えられ、丹波国領主となる。同六年、細川藤孝とともに亀山城を攻略。さらに八上城を落城させ、同八年、亀山城主となる。
天正十年(1582)五月、羽柴秀吉の中国征伐への援軍を命じられ、出陣。六月二日、 本能寺に宿泊していた信長を急襲、自刃に追い込んだ(本能寺の変)。
同月十三日、備前から軍を返した秀吉を山城国山崎に迎え撃って敗れ、近江坂本城へ逃れる途中、醍醐の小栗栖において農民に竹槍で刺殺された。五十五歳。



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