円山応挙について


● 亀岡出身の日本画家

円山応挙の生家跡碑
 亀岡出身の一番の有名人といえば、日本画家・円山応挙の名を挙げる人が多いだろ う。
円山応挙は享保18(1733)年、丹波国曽我部郡穴太村の農家の次男として生まれた。
幼名を岩次郎という。穴太寺の近くに円山応挙生誕の地碑が立っている。
岩次郎少年は幼い頃から絵ばかり描いていて農作業を手伝おうとしなかった。
困った父母は9歳の時、近くの金剛寺に入門させ、僧侶にしようとした。

● 応挙の生家跡と修行の寺
応挙が修行した金剛寺  金剛寺は応挙の生家跡から歩いて10分くらいのところにある。
応挙が幼少時を過ごしたことから別名「応挙寺」ともいう。
まず目に付くのが、龍宮城のような門。
「金剛窟」という立派な扁額や、小ぶりの鐘も下がっている。風格のある門に対して、本堂や蔵は新しく、少し、拍子抜けしてしまう。
金剛寺でも、応挙はお経を読むよりも絵ばかり描いていた。
そんな応挙に愛想をつかしたか、はたまた絵の才能を見抜いたのか、住職は京都に出ることをすすめたという。

父母もしかたなく応挙を京都の町家に奉公に出した。
ほどなく応挙の画才は周囲の人々に認められるようになり、画家・石田幽汀に弟子入りし、本格的に絵の勉強をするようになった。
後、応挙は円山派を開き、山水画、動物画、眼鏡絵、幽霊画など、様々な絵を描いた。

天明8(1788)年、応挙は父母の追善供養のために、金剛寺本堂に障壁画を描いた。
山水図、群仙図、波涛図など、いずれも重要文化財に指定されている。
幼少時、修行した寺に障壁画を残した応挙の心中には、世話になった金剛寺への感謝の心もあったかもしれない・・・。

 ・円山応挙(1733-1795)
江戸中期の画家。円山派の始祖。丹波国の農家の次男に生まれる。
穴太村の金剛寺で僧侶になるべく修行させられるが、挫折。
後京都に出て、初め狩野派の石田幽汀に学び,かたわら眼鏡絵を描いて西洋画法を習得。
さらに渡辺始興の影響を受け,30歳代初め写実主義の新進画家として登場。
このころの作品に《淀川両岸図巻》《難福図巻》がある。40代には写生画法と装飾画法を総合。
合理的な対象把握を骨格とした優雅な品格をもつ装飾画風を確立し、《雨竹風竹図□風》《藤花図□風》などを制作。
晩年には《雪松図□風》や大乗寺・金剛寺・金刀比羅宮等の障壁画、および絶筆《保津川図□風》などの大作を残した。
応挙画の洗練された様式美と合理性は京都の町民層を中心に圧倒的な支持を集めた門下に多数の画家が集まり円山派が形成された。



トップページへ
お問い合せ先: 亀岡商工会議所 京都府亀岡市余部町宝久保1-1 tel:0771-22-0053 fax:0771-25-1200
mail:ekamenet@pluto.plala.or.jp
Copyright(C)2001-2003 ekame.net All rights reserved