石田梅岩について


● 「負けるが勝ち。」

ガレリア亀岡内の
  石田梅岩の進学塾の再現
  
 石田梅岩という名前を知っている人は少ないだろう。
「心学」の開祖と言ってもピンとこないだろう。
しかし、「負けるが勝ち」という言葉を説いた人、といえば親しみが涌くかもしれない。
梅岩が大成した「心学」とは儒教・仏教・神道・道教の説を取り入れ、庶民の日常生活の中に取り入れたものである。

● 石田梅岩生家跡
石田梅岩生誕碑
間での道しるべ


ガレリヤ亀岡内の
石田梅岩に付いての展示

 石田梅岩は丹波国桑田郡東懸村の農家の次男に生まれた。
梅岩は子供時代に父の山へ遊びに行って、栗の実を拾ってきた。
しかし、父は「隣の家の栗の木から落ちた実だから、返してきなさい。」と言って、返しにやらせたという。
のどかな山村でおこりそうなエピソードである。

このような厳格な父に育てられた梅岩だが、8歳の時、京の商家へ奉公に出かける。しかし、15歳の時帰郷。丹波ののどかな雰囲気の中で農業に従事していた。23歳で再び京の呉服屋に奉公に出る。
商いをしながら、様々な思想を学び、43歳の時、京都の小栗了雲に師事。
1729(享保14)年、45歳で自宅(車屋町御池上ル)に講席を開く。

東掛の石田梅岩生誕地には、今でも彼の生家が残っている。
簡素なただずまいの生家跡を見ていると、「負けるが勝ち」と言っている梅岩の思想が見えてくるようだ。

梅岩の命日に当たる9月24日には彼の生家近くの東別院町東掛の春現寺で「石田梅岩墓前祭」が行なわれる。
梅岩の遺徳を偲び、地元住民や心学関係者が多数集まるという。

 ・石田梅岩(いしだばいがん/1685-1744)
 江戸中期の思想家・石門(せきもん)心学の祖。
名は興長、通称は勘平、号は梅岩。丹波国桑田郡東懸村の農家の次男に生れる。
8歳で京都の商家に奉公。15歳の時一度故郷に戻ったが23歳で再び京に上り、呉服商・黒柳家に奉公。43歳の時、京都の小栗了雲に師事。
1729(享保14)年、45歳で自宅(車屋町御池上ル)に講席を開く。
梅岩が大成した「心学」とは儒教・仏教・神道・道教の説を取り入れ、庶民の日常生活の中に取り入れたもの。「負けるが勝ち」とは梅岩が説いた言葉という。
以後、請われるままに京都・大阪を講義して廻る。著書に『都鄙問答』、『斎家論』。
1744(延享元)年60歳で死去。洛東・鳥辺野の延年寺に葬られた。



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