足利高氏と篠村八幡宮


● 足利高氏旗揚げの地・篠村八幡宮

高氏旗揚げの地・篠村八幡宮


家紋の旗を掲げた楊(やなぎ
 JR山陰線馬堀駅から南東に徒歩約15分で篠村八幡宮の鳥居が見えてくる。ここは足利高氏旗揚げの地。

足利高氏は元弘3(1333)年4月27日、京都六波羅から鎌倉幕府の命を受け、後醍醐天皇討伐のために山陰へ向かう途中、丹波国の篠村八幡に陣を張った。
篠村八幡は源氏の氏神。祭神の八幡太郎義家は高氏の先祖に当たる。周辺は足利の所領地で味方も多い。
高氏はここで尊王討幕の志を高らかに宣言し、北条討伐の催促状を各地に送った。

各地から集まって来る武将達の目印になるようにと、高氏は近くの揚(やなぎ)の 木に足利の家紋「二つ引両」(鱗(北条氏の家紋・三鱗)を食らう龍の意味がある。)の大きな白旗を掲げた。
その旗を立てた揚の6−7代目が「旗立揚」として神社の裏に残っている。
揚は柳とは別種で挿し木によって生き残るという。
現在の若木は昭和木に挿し木されたもの。その後ろにはすさまじい裂け目ととも に、直径1mはあるであろう、先代の揚の残骸があった。
そのすさまじい裂け方に北条氏と袂を分かった足利氏の気概を見たような気がし た。

● 足利の勝利の神

必勝の矢を埋めた矢塚

 足利勝利の神、篠村八幡宮本殿
 援軍が集まった29日、高氏は社前で必勝の願文(神社に現存)を読み上げ、続いて鏑矢を奉納した。
弟の直義を始め、集まった武将達は「我も我も」と必勝の矢を奉納し、矢はうず高く積まれた。
集まった矢を埋めたと言われる「矢塚」が境内に残っている。

武将達の志を一つに固めた高氏軍はここから一気に六波羅に攻め上り、 5月7日、六波羅探題を攻め滅ぼし、建武新政の魁をなした。

後醍醐天皇の尊治(たかはる)の「尊」の字をもらうほど天皇に信頼を受けていた 尊氏だが、後に後醍醐にも反旗を翻した。1336年、京都での攻防戦に破れ、九州に落ち延びる途中にもここ、丹波の篠村八幡に立ち寄り、再起を祈願している。
祈りが通じたのか、その後の湊川の戦いで勝利し、室町幕府初代将軍となった。

人生の重大な分かれ目に2度も勝利の祈願をして、願いが叶った篠村八幡宮。 尊氏は神のご加護に感謝し、多くの田畑を寄進した。
今は「足利高氏旗あげの地」の碑とともに、勝利の神として、亀岡の人々に篤く信仰されている。

住所:亀岡市篠町篠上中筋45-1
アクセス:JR馬堀駅より徒歩15分

 ・足利高氏(あしかがたかうじ/1305-58)
室町幕府初代将軍。貞氏の子。母は上杉清子。直義の同母兄。
源氏再興の志を抱き、幕府軍として西上した際、丹波の篠村八幡で北条氏に反旗を翻し、六波羅探題を攻め滅ぼした。建武の新政の第一の功臣として、後醍醐天皇の名の一 字「尊」の字を賜り「尊氏」と改名する。しかし、後に天皇にも反旗を翻し、一度は九州に逃れるが 湊川の戦いで勝利し、京都に室町幕府を開く。
後、手を携えて共に政治を行なってきた直義をも毒殺。
直義の養子直冬(尊氏の実子)の九州での反乱を鎮圧する計画中の1358年、病死した。
墓は京都衣笠の等持院。



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